着るということ
なんだかお相撲さんの問題でメディアは騒がしいようですね。
ニュースも見ていないので詳しいことは分かりませんが、協会と貴乃花さんが対立しているそうな。
そんな中、貴乃花さんがいつもストールを巻いていることが気に入らない、みたいなことをテレビで誰かが言っているのが聞こえてきました。
それが、先生の雑談に耳を傾けていると、体重が百何十キロから八十キロにまで落ちているのだから、首に皺が寄ってしまっているのではないかと仰っていました。
また、鍛えていた人が痩せてしまうと凄く首が冷えるそうで、それでそうしているのではないかとのことでした。
その先生は大学時代にボディービルをなさっていたそうで、その経験からの推察でしかないとは仰っていましたが、考えてみることは大事です。
そもそもストールを巻いていることの何に腹が立つのか、ぼくには全く理解できません。
服装をもってして相手に敬意を払うということも含めて、奇抜な人や地味な人、センスのあると言われる人からセンスゼロと言われてしまう人まで、服という表現方法があることが毛皮を持たない人間の特権ではないでしょうか。
これは制服を否定しているのではなくて、むしろ逆で、規則の求められる集団で制服を持つことは当然のことですし、それは公の姿ですから必要です。
そのうえで学生服の着方にしても校則という縛られた範囲の中でもそれぞれの個性は表現されるわけですから、違う話では全くありません。
敬意を服で示すことは大切です。
シワシワのシャツで来る生徒もいれば、隅々までアイロンのかかった制服を着ている生徒までいるから人間社会が成り立つと思っています。
もし全員が同じ服を着るような社会になれば、みんな同じ仕事しかできないわけですから世界は崩壊するはずです。
その個性を生かすために校則も存在するわけで、目立ちたい生徒は髪で芸術活動を始めたり、服の改造を始めるわけですが、それがルールを越えていることに意味があるのではないかと思っています。
仮に校則を撤廃すれば、目立つためには人を刺さないといけないことになります。
ですから校則が必要なわけで、最終的には法も必要なのだと思います。
中学の先生がなぜ校則が必要なのかとぼくらにずっと問うていたことを思い出しました。
事件なのですから警察に任せればよいのだと思います。