現実
緊急の全校集会が開かれた。
1年生の後輩が亡くなった。
何の関わりもないし、顔を見たことがあるのかすらわからない。
黙祷の間、女の子のすすり泣く声が漏れていた。
1年生だけ体育館に残され、2,3年生は教室に戻るよう指示された。
1年生の残るなか、体育館を出ていく同級生たちは騒がしかった。笑顔の子もいた。いつも通り、よくからない楽しそうな話をしていた。彼らの世界に戻っていた。
亡くなった後輩を知っている子に詰め掛けて盛り上がっている子もいた。
もちろんそうでない人もいる。
しかし、体育館を去っていく集団を一番後ろから眺めていると、大半の人間がそのような様子だ。
教室に戻ると、信じがたい会話も聞こえてきた。ちょっと、ここでは書けない。
正直、手が出かけた。
人間なんて、そんなものだ。
多くがそうなのだ。
同じ学校の生徒といえども所詮は他人事であり、興味もない。悲しんでいる人間に気を遣うことすらできないのだ。
今、隣の命が失われたとき、同じようにいられるのだろうか。同じ台詞を発せられるか。
それが聞こえてきて、平気でいられるのか。
同じ国の国民が拉致されていても気にならない。100年にも満たない過去に死んでいった先祖のことなど気にならない。毎日流れてくるどこかの誰かが亡くなったというニュースなど気にならない。
そんな状況を「平和」と呼ぶ。
それが「自分たちにとっての平和」でしかないことに気づきもしないでいるのである。
そんな状況を不思議に思っていた自分こそ馬鹿だった。
それはそうだ。同じところに通う数歳違いの生徒が亡くなった時ですらこうなのだから。
そしておそらく、客観的に見れば自分だってそうなのだ。そんな一面は誰にでもある。
人間の恐ろしい一面を見た日だった。
もちろん、意見が一致した友人もいた。ほんの少し。
少数派である。
ぼくは気の合うと思える人が少ない。
でも、決していないわけではない。
自分の先の人生が少し見えた気がした。
たぶん、少数派のままで死んでいく。
それでも、自分の人生に満足できなかったということには絶対にならないと思う。
少数というのは0ではないのだから。自分の信じるものに生きていきたいと思っているから。
生きているなら誰でも、その1秒後には死んでいるかもしれません。