シベリアからの音色 その1
極寒の大地 シベリア。
ロシアも本音では邪魔と思うほど厳しい環境の広大な地域で、寒いだけではなく、数多くの悲劇があった場所でもあります。
日本のシベリア出兵時にも悲惨な殺し合いの場になりましたが、今回はシベリア抑留の事について書きたいと思います。
関西テレビの番組に「よ〜いドン!」という番組があります。
最近、青山さんが「人生ホカホカ 思い出ごはん」というコーナーに参加なさっていた番組です。
このコーナーをご覧になった方はご存知の通り、関西らしい、温かい番組です。
この番組に、関西のローカルな町中を散策しながら、たくさんの人との出会いの中で特に印象に残る方を「となりの人間国宝さん」に認定するというコーナーがあります。
びっくりしてしまうくらいローカルで身近な場所も出てくるので、大好きな番組のひとつです。
放送される時間帯の関係でなかなか見られませんが、去年たまたま見た回で興味深い内容があり、その回では兵庫県高砂市を円 広志さんが散策されていて、小さな楽器店兼音楽教室に立ち寄られました。
そこが、田中唯介さんの営まれる田中音楽堂です。引揚資料館も兼ねてらっしゃいます。
高砂といいますと、ぼくの住む加古川市のすぐ西隣の市ではありませんか。
シベリア抑留の経験をお話しなさっているのを見て、そんなに近くにそんな方がいらっしゃることに驚き、一度お話を伺いにいきたいと思っていたのです。
それからかなり時間が経ってしまったのですが、先週の金曜日にふと思い出し、電話をかけてみますと、とても九十歳とは思えないはっきりとしたしたお声で田中さんが出られました。
シベリアのお話を伺いたいので日曜日に伺ってもよろしいでしょうか?とお聞きしますと、快く承諾くださいました。
ここが、その田中音楽堂です。
「お邪魔しまーす!」と販売されている楽器が並んでいる真っ暗な部屋に言ってみると、奥から元気のいいお声がして、田中さんが降りてこられ二階に迎えてくださると、まずその素敵な音楽部屋に驚きました。
アコーディオンやギター、ピアノ、大きなスピーカーなどで埋め尽くされながらも、それらが見事に配置され白熱電球に照らされたその部屋は、作曲家の部屋のイメージそのものでした。
ここからは田中さんにお聞きした内容を書きます。
九十一歳の現在もアコーディオン奏者で作曲家でらっしゃる田中楽風こと、田中唯介さんは、日本が敗戦を迎える年の二月、十九歳で満州へ出征され、舞鶴重砲隊に入隊、その後、満州野戦高射砲860部隊へ転属され、現地で敗戦をむかえられました。
その後、終戦間際に日ソ中立条約を破り、不法に満州、樺太、千島に侵攻してきたソ連軍に捕らえられ、6000㎞もの道のりを二か月、シベリア鉄道の貨物車に詰め込まれ、現カザフスタンのカラガンダまで運ばれました。
鉄道敷設などの重労働を、時には零下40度にもなる極寒のなかで、奴隷のように銃を向けられながら行っていた地獄のような生活の中、田中さんが見つけた希望が音楽です。
当時、日本からだけでなく、同じ敗戦国であるドイツ等からの抑留者がいらっしゃり、その中のベルリン管弦フィルハーモニー出身のドイツ軍人がアコーディオンの演奏をされていたとのこと。
その、あまりにも素晴らしい演奏に心動かされ、日本側の物資にあったアコーディオンを借り、演奏をそのドイツ人に学んだそうです。
田中さんの抑留中の、そして人生の友がアコーディオンでした。
その後、念願の帰国が叶い、引揚の町、舞鶴で祖国の土を踏みましたが、引揚後も想像も出来ない程の苦労をされたそうで、波乱万丈の人生だったと仰っていました。
現在はシベリア抑留の経験を、アコーディオンの演奏を通して伝えてらっしゃいます。
本当にざっくりとした内容ですが、以上が田中さんの経験されてきた人生です。
ノンストップでたっぷり二人で話し込んでいると、夕方六時から一時間のはずが、なんと九時半になっており、つい、青山さんの講演会みたいだったなぁ、と思ってしまいました。
ひとつの記事ではとても書ききれない量の貴重なお話をしてくださいましたので、ひとつずつ詳しくまとめて行きたいと思います。
こちらが、アコーディオンの素晴らしい弾き歌いをしてくださった田中さんです。